2010年 03月 14日
鳥や魚と人間 |
「魚になるまで泳げ」と、古橋廣之進はいったらしい。実際に彼の泳ぎが魚のようだったのか
どうかはわからないけど、魚はどのように泳いでいるかと考えると、やはり、ヒレでは泳いで
いない、という結論になる。
ヒレはあくまでも水を押す部分であって、その部分(ヒレ)を使って泳いでいるという方が
正しい。つまり、ヒレは道具といってもいいと思う(素人の暴論です)。それではどこが
ヒレを動かしているかというと、ヒレ以外の身体ということになる。
もし、ヒレ自体を動かして泳いでいるとすると、身体の末端にある筋肉(それは決して大きく
働く筋肉には思えないけど)を使うことになる。それでは大海原を泳ぐのにはとても
不適切。水槽のなかの金魚さえ、それは無謀なことに思う。
鳥の羽についても同じことが言える。羽自体を動かしているのではなく、羽という道具を
動かして空を飛んでいると、考える。
それでは、人間は?というと、ヒレや羽に当てはまる部分は「腕や手・足」と考えると
丁度いい。つまり「腕や手・足」は道具。道具を使うのは体幹部分。
こう考えていくと、人間が道具(この場合、やじり・弓・筆・刀、最近ではバットやラケットなど、
全ての道具)を使うことで、「腕や手・足」を道具としてではなく、魚がヒレ自体を動かして
泳ぐ、鳥が羽そのものを動かして飛ぶがごとくの動きになってしまったことも、自分の
なかでは説明がつく。
また、なぜ人間の身体は癖がつきやすいのか、自分のなかで合点がいく。(だからといって
動物や昆虫の体に癖があるのかどうかはわからない:汗)。
人間が道具を使うことになったのは、2足歩行になったのと同じ意味と考えていい。
だからこそ、なのか、【雑巾掛け】はある意味、道具を使う人間らしくない(特に現代人らし
くない)、または、動物にそなわっていた本来の動きに近い身体の動かしかたをするものと
考えられる。
それにしても、今日の日本、【雑巾掛け】をする場所や機会がどれほど残っているのだろう。
ビビロロ教育論として、小学生は6年間、体育館の床、【雑巾掛け】を必須科目とするという
ことを提唱してみたい。
どうかはわからないけど、魚はどのように泳いでいるかと考えると、やはり、ヒレでは泳いで
いない、という結論になる。
ヒレはあくまでも水を押す部分であって、その部分(ヒレ)を使って泳いでいるという方が
正しい。つまり、ヒレは道具といってもいいと思う(素人の暴論です)。それではどこが
ヒレを動かしているかというと、ヒレ以外の身体ということになる。
もし、ヒレ自体を動かして泳いでいるとすると、身体の末端にある筋肉(それは決して大きく
働く筋肉には思えないけど)を使うことになる。それでは大海原を泳ぐのにはとても
不適切。水槽のなかの金魚さえ、それは無謀なことに思う。
鳥の羽についても同じことが言える。羽自体を動かしているのではなく、羽という道具を
動かして空を飛んでいると、考える。
それでは、人間は?というと、ヒレや羽に当てはまる部分は「腕や手・足」と考えると
丁度いい。つまり「腕や手・足」は道具。道具を使うのは体幹部分。
こう考えていくと、人間が道具(この場合、やじり・弓・筆・刀、最近ではバットやラケットなど、
全ての道具)を使うことで、「腕や手・足」を道具としてではなく、魚がヒレ自体を動かして
泳ぐ、鳥が羽そのものを動かして飛ぶがごとくの動きになってしまったことも、自分の
なかでは説明がつく。
また、なぜ人間の身体は癖がつきやすいのか、自分のなかで合点がいく。(だからといって
動物や昆虫の体に癖があるのかどうかはわからない:汗)。
人間が道具を使うことになったのは、2足歩行になったのと同じ意味と考えていい。
だからこそ、なのか、【雑巾掛け】はある意味、道具を使う人間らしくない(特に現代人らし
くない)、または、動物にそなわっていた本来の動きに近い身体の動かしかたをするものと
考えられる。
それにしても、今日の日本、【雑巾掛け】をする場所や機会がどれほど残っているのだろう。
ビビロロ教育論として、小学生は6年間、体育館の床、【雑巾掛け】を必須科目とするという
ことを提唱してみたい。
by hynbm
| 2010-03-14 19:30
| 水 泳